2014年5月23日金曜日

「崩壊」をうながしたもの

この頃の邦銀の国際競争力の基礎はこういうことであった。低利の資金量の力である。アメリカ人は、朝鮮戦争のとき中国軍が鴨緑江を越えて津波のごとくなだれ込んできた様、あるいは西部劇でのインディアン襲来の情景を思い浮かべたのではないか。ジャパンマネーの奔流。金融技術や情報収集力が強かったわけではない。それをわれわれは、日本的経営の力と思い込んでいたところがある。

だから、不良債権の痛手と円安で、この量的な強みが逆転したとき、日本の金融機関の国際競争力は見る見る低下していった。当然の成り行きである。いま起っている事態は、日米逆転ではなく、質的な意味での実力としては、もともとこんなものだったのである。数年前にいかにも日本の金融界がアメリカをしのいだなどと思っだのが誤解だったのだから、いま後塵を拝しているからといって悲観しすぎることもないのだ。

バブルの発生を避けられればよかったのはもちろんであるが、せめてバブルの崩壊過程をもっとうまく乗りきれなかったのか、との指摘もあろう。崩壊過程における当事者の一人として、そのような反省も数々ある。

日銀は、八七年二月以来史上最低の異常な公定歩合が二年以上も続き、引上げのきっかけを探り続けていたが、先に述べたような各般の情勢から、なかなかそれを見つけ出すことができなかった。ついに八九年五月に政策転換ではないとのコメント付きで、公定歩合の引上げに踏み切った。当時は地価の異常な高騰が全国的に広がりつつあり、国民の間に資産保有の有無による不平等拡大への不満が高まりつつあった。

そのような社会の空気を背景にして流れが変わり、この頃からバブルつぶしの競争が始まった。ジャーナリズムの間にもバブルつぶしの先陣争いが起り、政治家や政策当局もその流れに乗ることになった。日銀は一年あまりの間に五回、合計三・五%に及ぶ急激な公定歩合の引き上げを行った。日銀総裁はバブルつぶしに大ナタを揮う「平成の鬼平」と賞賛される。