2013年11月5日火曜日

人間の価値を重んじた発展を

即位後間もなくの二〇〇七年三月に、わたしは国王としてのはじめての面謁の栄に浴したが、まだ国王という役職に慣れないせいもあるであろうが、そのシンプルさに驚いた。父君第四代国王は、同じく簡素でありながら、実に威厳のある態度で、こちらが威圧されるような雰囲気があったが、新国王は失礼な言い方かもしれないが大学で最高の教育を受けた将来性のあるエリートであるが、物腰が低く、人当たりのいい好感の持てる青年で、生真面目で初々しいハフレッシャー」(新入社員)といった感じであった。すでに数県で行われた、国民に新憲法の草案を説明する会で、農民のいくつかの質問に答えられなかったこと、世界で一流とされるイギリス、アメリカの大学で学んだ自分よりも、農民のほうがブータンをよく理解しており、実生活から得た、地に足の着いた知恵を持っていること、などを恥じらうように語られた。

そして自らの治世に関しては、①国王親政から議会制民幸王義への完全移行、②国民総幸福・総充足、③生活・サービス・生産などあらゆる面における質を高めること、④経済的自立の四点が目標であり、その達成は必ずしも容易ではなく、未知数が多いが、わたしはそのために全力を尽くす覚悟であることだけは約束できる、と述べられた。ブータンは今あらゆる面で過渡期にあり、今後かつてない様々な課題、試練に直面することであろう。それ故に、この目標がそもそも達成できるものなのか、それともできそうにないものなのか、できるとしても、達成までの道のりがいかなるものかは、誰一人予測できないのが実情であろう。

しかし第一目標の民主国家という点に関して言えば、第五代国王は、歴代四国王とはまったく異なった、言ってみれば非常に庶民的、民主的な国王である。この点で自らができる領域において、新国王は誰にも先駆けて民主化という目標をすでに完全に達成している。その他に関しては、タシデレ(吉祥あれかし)と祈りつつ、今後の成り行きを見守るはかないであろう。近年ブータンが国際的に注目を集めるようになったのは、なんといっても第四代国王が提唱したGNH(Gross National Happiness)すなわち「国民総幸福」という方針・信条・理念によってであろう。その目指すところは、一九七二年の即位演説中にすでに述べられており、一代の治世を一貫したものといえる。それは、もし物質的発展の名のもとに、伝統文化が失われるとすれば、それは最も悲しむべきことであり、そうした結果を招くような近代化・経済発展は是が非でも避けねばならない、ということである。

つまり、物質的発達によって、心の安らぎが損なわれることがあってはならない、という固い信念である。これは、現第五代国王の下でも継承・推進される政策であり、ブータンをもっとも特徴づけるものである。この理念が言語化されて、はっきりとした形をとっためね一九七六年である。この年スリランカの首都コロンボで開かれた第五回非同盟諸国首脳会議に出席後の記者会見で、第四代国王はこう語った。Gross National Happiness is more important than Gross National Product (国民総幸福は国民総生産よりも大切である)これは、GNP(Gross National Product)すなわち「国民総生産」をすべての価値基準とする世界の趨勢にたいして、経済発展はブータンの究極目的とするところではなく、GNHすなわち「国民総幸福」の向上こそが、ブータンが目指すところである、という仏教理念に基づいた独自の方針、政策の宣言であった。それは革命的な新しい概念であったが、当初は、世界の最貧国の一つの、即位後間もない最年少国家元首の理想論的きれいごと程度にしか見なされず、多くの経済・開発専門家は懐疑的であった。

GNHは素晴らしいキャッチフレーズだが、それを計る尺度、指数はあるのか、あるとすれば何なのか、と多くの人びとがいぶかしがった。しかし、時の経過とともに、発展途上国における近代化・経済発展に伴う様々な問題が顕著になってくると、GNHは徐々に注目されるようになった。たとえば、世界指導者フォーラムから二〇〇三年度最優秀経済ジャーナリストに選出されたリチャードートムキンス氏が『ファイナンシャルータイムズ』紙に寄稿した「どうしたら幸せになれるか」という記事がある。そのフランス語訳を掲載するに際して、『クーリエーアンテルナショナル』紙は紹介文で、「二〇〇二年九月の国連総会で、ブータンの外務大臣は、「国内総生産は、発展の究極目的ではなく、わが国は、国民総幸福の促進をガイドラインとして継承している」と再び声明した。ヒマラヤの小王国は、この人間の価値を重んじた進歩という哲学を公式に採用した唯一の国である」と、ブータンに着目している。