2012年9月3日月曜日

本性のちがった二種類の美

「正月のこと、自分か生まれかわったという意識だった。みるものがみな明るく、非常に美しくて。生命がふきこまれたという感じがした。急に人生を感じた。石にこしかけて外界をながめていると涙がでた。非常にきれいな、絵葉書とでもいうか、夢のような外界の美しさだった。躍動の感じはなかった。子供にかえったという単純な夢のような、今までの懐疑状態がとけて、急に眼が外界にひらいたという感じ。すばらしい正月だった。これまではなにもかも枯れくちた世界だった。このときは神経が集中してかるかった。うっとりしたという感じ。自我意識を感じるでもなし、消えてしまったでもなし」。

「この孤島にわたって幾日目かのことだった。私はその日ある農家にまねかれいていたが、座敷からおもてをながめると、防風林でかこまれた荒れた庭の上に、息をふさぐかのように南海のしめった大気がじっとりとよどんでいた。相手をしていた主人が所用でたったあと、所在なくひとりでおもてをながめているうち、にわかにおもてがさわがしくなって、駁雨が見まってきた。この島では天候がかわりやすく、てりつけていた太陽がかげったと思っているうちに大粒の雨がおちてくることが稀ではない。

庭にふりそそぐ雨の景色、それ自体はなんの変哲もなかったが、うす暗い座敷にこもってひとりながめていると、急にロでいえぬ美しさを感じた。なにが美しいというのではない。見えているもの、耳をうつもの、そのままにすべてが美だった。天地間の美がここに顕現したと感じた。じっと見ていると涙があふれてきた。主人がもどってくる気配がしたのであわててみなりをつくろっているところへ、わびを言い言い彼がはいってきた。それと一緒に美の世界はもうにげ去ってしまった」。

白鳥のよそおいにも、園丁のかついだ一本の木にも、躍動する生命を感した女のひとの場合と、あとの二つの例をくらべてみると、どちらも人間をつっむ外界はみごとに美化されているのだが、双方の間にはなんとへだたりがあることだろう。

まえの女性の方は、自分か生をよろこぶのとともに、まわりの人やけものや草木までも生にあふれてあたたかな美しさをもっていると感情移入する。そうしてこの生のよろこびをともどもにわけあおうと現実にのぞんで、自分から共同的行動にでるのである。ところがあとの二人の美的鑑賞者は本性これとちがって、石にこしかけたり、うす暗い部屋にひとりしりぞいたりして、自分の向側にある外物を不動のうちにながめわたしている。

彼らは人のいない孤独の座にいなければならないし、現実界でのうごきをとめて、じっとたたずまなければならぬ。さもなければ美はやってこないのである。こうしてきた美は、あたたかな生きた美とは別の、つめたい。不動の自然を超脱したこの世ならぬ美である。このように美にはあたたかさとつめたさ、生命的と生命離脱的、躍動的と静止的、現実的と非現実的、本性のちがった二種類の美があると知らなければならない。