2015年2月12日木曜日

市場経済化の方向に切り替える

反抗すれば「思想的不良分子」として逮捕されることを、「見せしめ刑」によって学習し、誰もが批判されないように行動することに、違和感を感じなくなっていたのである。その意味で毛沢東は国民の心理操作に成功したと言えるだろう。だから「走資派」が捕われる時代には、金のことはおくびにも出さず、「平等に貧乏である」ことを美徳とし、それを以て革命思想の表れとしていた。もちろんその結果、働いても働かなくても給料は同じなのだから、できるだけ働かなくなる。朝は八時か八時半に出勤し、先ずお茶で一服しながら、のんびりと新聞を読む。一一時になれば昼ごはん、コー時から三時ごろまでは食後の休憩ぺ昼寝をするソファーが職場にはある。昼寝から目覚めると、そろそろ帰り支度が始まる。四時ともなれば国営企業行政官庁等の広い中庭には夕食のおかずや熔餅(こねた小麦粉を発酵させずに丸く伸ばしてフライパン等で焼いたもの。ナンに似ているが、ナンよりもこしがある)を載せ九屋台が所狭しと並び、温かいうちに買い求めて家路へと急ぐ。これが日課だった。

これは無産階級文化大革命あるいはプロレタリアート文化大革命と呼ばれているが、実態は、「大躍進」等の経済政策に失敗して国家権力の座から降りざるを得ないところに追い込まれた毛沢東が、経済に強い実権派であった劉少奇等から権力を奪還しようとした政権闘争に等しい。「大躍進」とは、毛沢東が一九五八年に発動した「集団農場化や全国民による製鋼運動を中心とした、農工業の大増産政策」である。十五年以内にイギリスを追い越すと豪語したこの無謀な計画は、三千名前後に及ぶ餓死者を出し、大失敗に終かった。この失敗による権力の回復を目的として、毛沢東は劉少奇等を走資派と批判して権力の座から引きずり降ろし、旧文化を批判し、社会主義的文化を強化させようとして知識人を弾圧。あらゆる分野において多くの人材や文化財が被害を受け、中国経済は深刻な打撃を受けた。

一九六六年から七六年までの一〇年間にわたって吹き荒れた混乱により、中国経済は全世界の歩みから見るとい相対的に約三〇年間後退したと言われている。文化大革命終息後の一九七八年一口月、日中平和友好条約の批准書を交換するために訪日した鄙小平は、戦後わずか三〇年余りでここまでの復興を成し遂げ九日本の躍進ぶりに驚き、さらに新幹線に乗ツて、そのあまりのスピードにショョクを受け、「まるで背中から鞭打たれているようだ」という感慨を漏らしたのは有名だ。それに比べこの中国は廃墟に等しい。そのニカ月後の七八年コー月、郵小平は中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で「党の政策の重点を(政治闘争から)経済建設に移す」という国内体制【改革】と「対外開放」を中心に据えた【開放】政策を打ち出す。これを合わせて【改革開放】という。