2015年7月13日月曜日

民主主義の世界化

表面に出る奥野的あるいは中曾根的な歴史観や国家主義と、いまの若者の間にジワジワと浸透している大国主義や自己満足との間が、教育というものでつながれているという印象を禁じえないのです。教育ベルト、教科書ベルトのもつ重さは決して過大視しすぎることはないというのが、私の実感です。今日の日本の、方向不明の国家主義も、古い問題ではなく、古くて新しい問題として取り組まなければならないと思います。

それは換言すれば、日本における自由とはいったい何なのだろうかという問題です。歴史上、国家とか権力とかとのきびしい緊張関係に立ってきたのは、「自由とは何か」という問いでした。この問題を日本の若者自身がもう一度考える必要があるのではないか。少し注意して見れば、時に常軌を逸するほどの日本のマスーメディアの過当競争の影響ひとつとっても、自分たちは操作の対象にされているのではないかという意識をもつきっかけはたくさんあるはずです。そういう中で、日本の見えざる権力構造をもっと自覚化していく作業は十分できると思うのです。

こうした日本の異常さを自覚するのに、かつては欧米社会だけが引照されることが多かったのですが、今日では第三世界を体験することによって、日本を逆照射する機会をもった若い人々もふえています。そういう体験が日本を考え直す力となるはずです。しかも第三世界体験は、日本社会自体の国際化に伴い、日本そのものの内部でも起こるように、急速に変わってきています。いままでは東南アジアに行ってショックを受けたといった体験を契機に、日本を考え直すことが多かったのですが、このごろは外国人労働者の問題などもあって、日常的に日本社会の中で、日本人や日本社会を逆照射し、日本のありようを考えさせられることが少なくないわけです。

それに、実はこうした変は日本だけではなく、世界的に起こってきているのです。一民族だけから成る国家など、東西南北を問わず世界のどこにもないと言っていいのです。異なったエスニックーグループがどの国にもあるわけで、だとすれば、どのようにしてこれらの集団が対等に、しかも多様性を保持して共生していくのかというのは、文字通り世界問題なのです。異民族間の平和共存は、これまで主として国家間の「国際」問題と考えられてきました。しかし今日では、少数民族やエスニックーグループ間に「民主主義の世界化」が浸透した結果、この「国際」問題が、「国内」で異なった民族・文化集団がどう平和共存し共生していくかという身近な問題に、直結することになった。逆に言えば、この日常生活の問題を解いていくことが、また世界的な規模での人間や民族の対等性と多様性に立脚した平和を創っていくことと、不可分につながっているのが現代なのです。

これは基本的には人権の問題に帰着します。そして人権との緊張で、入国管理とか警察とかのあり方を究明していけば、結局国家の暴力機構にぶっかるのです。今日、兵器体系や軍隊は、とくに先進国では、日常的に可視性をいちじるしく減じています。ですから「軍事化」という問題も、軍備とか戦争といった角度だけからでは、想像力を駆使しない限り、日常的には見えにくい。しかし他面、具体的にいま人権がどういう状態にあるかということから入っていくと、国家権力は鮮明に意識されてきますし、そうした文脈の中で、権力の軍事化、ひいては世界政治の軍事化の構造も、強く意識されるようになります。一見迂遠のようですが、このようにして、軍事化のもつ意味を日常的に理解することが実は本筋であり、これは若い人にとどまらず、私たち大人も心しなければならない点だと思います。