2013年12月25日水曜日

近代のほうが権利がなかった

それによると、女性たちは、公的な場では、男におおきく劣った権利しか享受せず、公職にもつけなかったが、私法では独立した権利主体であった。娘は、父が死ぬと、兄弟とおなじだけ相続できた。ただし、彼女が結婚していればその権利はない。が、そのかわり、結婚時の嫁資はそのまま彼女のものであった。父から相続した財産・土地は、彼女が相続時に成人(十二歳)に達していれば、男同様、その所有権をもつ。また、そうなれば遺言によってそれを自由に処分できる。また彼女は商売したり、売買・貸借や契約することもできるし、保証人になり、出廷し訴追され、債権者として債務者を身柄拘束するなども可能となる。

南フランスでぱ、北と異なり、封建関係における長子相続がほとんど知られなかった。したがって領主の死後、封土は、女もふくめたすべての子供の間に分割され、共同領主となることが多かったのである。北フランスでも、南ほどではないが、女性にある程度の権利(財産譲渡やその同意)があたえられていた。成人した女性は、結婚する友で男子同様、自ら訴訟をおこしたり契約をかわせたりできた。また結婚しても、夫のいるあいだはその同意なく契約一遺言・証言・取引といった法行為ができなかったが、寡婦となれば、ふたたび男性と同一の権利を手に入れられた。

都市でも、中世には、女性は政治に参加したり、役人になったりすることはできなかったものの、かなりの権利をもっていた。彼女はギルドや信心仝に所属したし、両親や夫の遺産を相続し、自分の財産をもち、金を貸し借りしたり契約を交わしたり、誓いをたてたり、訴訟を起こしたりできた。ただし、それは、女性が’「家」に属しているかぎりであった。女性は結婚してこそ。市民として都市の保護をうける。なぜなら、中世の都市は、もともと家ないし家族の連合体であったからである。家は徴税の単位であり、また都市防衛のための武力供出の単位であった。

都市のそれぞれの家は、市民として誓いをたて平等な権利義務をもつ。男の家長に支配され保護されている。また、その市民=家長に支配される家のメンバーたる妻や子供も、ひろい意味での市民権に加わることができた。したがって、女性でもそのような家に属せば、「市民」と呼ばれてさまざまな権利を享受し、彼女らが家長になればその参加は完全になる。しかし、この女性の権利は、のちに失われることになった。後期中世の都市で、一種の「民主革命」がおこって、家ではなく「個人」が都市の単位となったからである。そういうところでは、それまで権利をもっていなかった下層の男性にもそれがあたえられるようになった反面、女性の権利はそこなわれていったのである。

結婚生活における女の立場は、中世末以降、一段と悪化し、かつて女性にあたえられていた財産の所有権は次第に骨抜きにされ、すべて夫に奪われてゆく。十六世紀には妻は法的に無能力化し、法廷で証言したり契約書を交わすこともできなくなってしまった。中世末から近代にかけて、女性の権利は、我々の想像とは逆に、縮小・消滅していったのである。このことは、盛期中世以前に女性がもっていた権利のおおきさ、多面性とともに、現代人の常識をくつがえすものであろう。絶対王政期には、家父長権が絶対化し、それをコントロールすることで王国の秩序をきずいてゆこうとした。それゆえ男性の権利・権力の伸張に反比例して、女性の権利は縮小していったのである。

2013年11月5日火曜日

人間の価値を重んじた発展を

即位後間もなくの二〇〇七年三月に、わたしは国王としてのはじめての面謁の栄に浴したが、まだ国王という役職に慣れないせいもあるであろうが、そのシンプルさに驚いた。父君第四代国王は、同じく簡素でありながら、実に威厳のある態度で、こちらが威圧されるような雰囲気があったが、新国王は失礼な言い方かもしれないが大学で最高の教育を受けた将来性のあるエリートであるが、物腰が低く、人当たりのいい好感の持てる青年で、生真面目で初々しいハフレッシャー」(新入社員)といった感じであった。すでに数県で行われた、国民に新憲法の草案を説明する会で、農民のいくつかの質問に答えられなかったこと、世界で一流とされるイギリス、アメリカの大学で学んだ自分よりも、農民のほうがブータンをよく理解しており、実生活から得た、地に足の着いた知恵を持っていること、などを恥じらうように語られた。

そして自らの治世に関しては、①国王親政から議会制民幸王義への完全移行、②国民総幸福・総充足、③生活・サービス・生産などあらゆる面における質を高めること、④経済的自立の四点が目標であり、その達成は必ずしも容易ではなく、未知数が多いが、わたしはそのために全力を尽くす覚悟であることだけは約束できる、と述べられた。ブータンは今あらゆる面で過渡期にあり、今後かつてない様々な課題、試練に直面することであろう。それ故に、この目標がそもそも達成できるものなのか、それともできそうにないものなのか、できるとしても、達成までの道のりがいかなるものかは、誰一人予測できないのが実情であろう。

しかし第一目標の民主国家という点に関して言えば、第五代国王は、歴代四国王とはまったく異なった、言ってみれば非常に庶民的、民主的な国王である。この点で自らができる領域において、新国王は誰にも先駆けて民主化という目標をすでに完全に達成している。その他に関しては、タシデレ(吉祥あれかし)と祈りつつ、今後の成り行きを見守るはかないであろう。近年ブータンが国際的に注目を集めるようになったのは、なんといっても第四代国王が提唱したGNH(Gross National Happiness)すなわち「国民総幸福」という方針・信条・理念によってであろう。その目指すところは、一九七二年の即位演説中にすでに述べられており、一代の治世を一貫したものといえる。それは、もし物質的発展の名のもとに、伝統文化が失われるとすれば、それは最も悲しむべきことであり、そうした結果を招くような近代化・経済発展は是が非でも避けねばならない、ということである。

つまり、物質的発達によって、心の安らぎが損なわれることがあってはならない、という固い信念である。これは、現第五代国王の下でも継承・推進される政策であり、ブータンをもっとも特徴づけるものである。この理念が言語化されて、はっきりとした形をとっためね一九七六年である。この年スリランカの首都コロンボで開かれた第五回非同盟諸国首脳会議に出席後の記者会見で、第四代国王はこう語った。Gross National Happiness is more important than Gross National Product (国民総幸福は国民総生産よりも大切である)これは、GNP(Gross National Product)すなわち「国民総生産」をすべての価値基準とする世界の趨勢にたいして、経済発展はブータンの究極目的とするところではなく、GNHすなわち「国民総幸福」の向上こそが、ブータンが目指すところである、という仏教理念に基づいた独自の方針、政策の宣言であった。それは革命的な新しい概念であったが、当初は、世界の最貧国の一つの、即位後間もない最年少国家元首の理想論的きれいごと程度にしか見なされず、多くの経済・開発専門家は懐疑的であった。

GNHは素晴らしいキャッチフレーズだが、それを計る尺度、指数はあるのか、あるとすれば何なのか、と多くの人びとがいぶかしがった。しかし、時の経過とともに、発展途上国における近代化・経済発展に伴う様々な問題が顕著になってくると、GNHは徐々に注目されるようになった。たとえば、世界指導者フォーラムから二〇〇三年度最優秀経済ジャーナリストに選出されたリチャードートムキンス氏が『ファイナンシャルータイムズ』紙に寄稿した「どうしたら幸せになれるか」という記事がある。そのフランス語訳を掲載するに際して、『クーリエーアンテルナショナル』紙は紹介文で、「二〇〇二年九月の国連総会で、ブータンの外務大臣は、「国内総生産は、発展の究極目的ではなく、わが国は、国民総幸福の促進をガイドラインとして継承している」と再び声明した。ヒマラヤの小王国は、この人間の価値を重んじた進歩という哲学を公式に採用した唯一の国である」と、ブータンに着目している。


2013年8月28日水曜日

米軍基地を観光施設にすべき

その文化とは、首里城のようなシンボリックな建造物ではなく、家は小さくとも、そこに住む人が、これが俺の町の伝統だ、歴史だと誇りを持つことからはじまる。今の沖縄は、「オキナワ」という幻想に酔った「ナイチャー」がやってくるだけだ。沖縄の本土化かもっと進めば、さすがに彼らも幻想であることに気づく。そうなれば、欧米人観光客どころか、日本人だってうんざりすることだろう。基地をなくしたければ外国人観光客を増やせ沖縄にとって米軍基地は、経済的にも文化的にも、さらに住民の精神面にも大きな影響を与えている。大量に軍用地を所有している一部の住民や、基地経済のおこぼれにあずかっている人を別にすれば、大半の県民は早々に立ち去ってほしいと願っていることは言うまでもない。

米軍基地の存在は、住民の身体への危機をともなう。普天間基地がある宜野湾の近くでお茶を飲んでいると、戦闘機やヘリが建物を屋根をかすめるようにして飛んでいくのを目にする。高台に昇ったらパイロットの顔が見えるのではないか、いや、石を投げたら当たるのではないか、そう思えるような低空を飛んでいくのである。もちろん凄まじい爆音である。那覇空港の南側に浮かぶ瀬長島にいくと、離着陸するジェット旅客機の胴体が間近に見られる。これを見に来る航空マニアはひきもきらず、いまや人気スポットになっているが、宜野湾は瀬長島とはまったく違うのである。

瀬長島はヽ長く弾薬庫として使われたため、住民が追い出されて現在も無人島に近い。しかし、宜野湾には九万人強の住民が住んでいる。操縦しているあの連中が、降下中にくしゃみでもしたら住宅地に墜落するんじゃないか、そんな恐怖の中で生活しているのである。実際、それが現実になったのが、沖縄国際大学の本館に米軍ヘリが墜落炎上した事件(〇四年八月一三日)だろう。このとき米軍は日米地位協定をたてに、墜落した機体から墜落現場の土壌まで回収してしまい、日本の住宅地に墜落しながら日本はまったくの埓外におかれた。こんな不条理なことが許されるのは、世界でも日本ぐらいだ。この米軍ヘリ墜落に対し、主催者発表で三万人の抗議集会が開かれたが、最近の抗議集会はかつてのような、大きな盛り上がりは見られなくなっている。どうあがいたところで、どうにもならない諦観のようなものが人びとの心に巣くいはじめたのかもしれない。

実際、これまで沖縄県民がどれほど反対しようと、米軍基地がなくなる気配は微塵も見られなかった。反対運動が広がればカネをばらまくという、日本政府自体がアメリカの手足になって姑息なことをしているのだからどうにもならない。チベット亡命政府が中国に「高度な自治」を求めても、一蹴されてきたのと同じ構図である。問題が起これば巧妙に禰縫策をとる。だから米軍基地はどんなに騒いでもなくならない。では、やはり諦めるしかないのだろうか。可能性があるのは国際社会に訴えることだ。むろん沖縄県は日本を代表する政府ではないから、霞が関を頭ごしに訴えることはむずかしいかもしれない。それなら、国際社会に影響力のあるヨーロッパやアメリカの観光客を沖縄に呼ぶことだ。そして、基地とその周辺を「観光」してもらうことである。

沖縄県の面積の一一%もが米軍基地に占領され、それも市街地のど真ん中にあって、住宅街の上空をわが物顔に飛び交っている光景を見たら、彼らは平然としていられないはずだ。おそらく口から口へと、沖縄の異常事態が世界に伝えられ広がっていくだろう。そうなれば、当然日本政府もアメリカ政府も世界中から批判を受ける。北京で欧米観光客に人気があるのは、帽児胡同と言われる昔ながらの町並みだが、私なら、普天間基地や嘉手納基地のそばに、帽児胡同のような古い沖縄の町並みをつくり、そこに欧米観光客に泊まってもらって米軍基地を肌で体験してもらう。きっと彼らは、沖縄の痛みを世界中に吹聴してくれるだろう。沖縄は、今すぐ米軍基地を観光施設にすべきなのだ。


2013年7月4日木曜日

日本の医療福祉は政府の価格統制の下にある

さきほど年金を払い戻すと申し上げましたが、実際にはこの生年別共済に(任意で)振り替えてもらうべきでしょう。これにより、生まれ年ごとの人口の違いに関係なく「お年寄りの面倒はお年寄りから徴収した金銭でみる」ということが実現出来ます。幸運にして大病もせず怪我もせず、ピンピンコロリで亡くなった方の遺したお金を、不幸にして大病を患ったり大怪我をしたりした同世代の方の面倒を見るのに回すということで、誰も傷つけることなく高齢化社会を乗り切ることができるのです。そんなうまい話があるのか。誰かが損をしない限りそんなことは実現不可能では? 確かに戦争ですべてを失った人も多かった過去の世代相手にこのようなことを導入すれば、豊かな時代に育った後の世代に比べて不公平が生じます。しかし四〇年代生まれ以下の世代であれば、生まれ年ごとに分けてみて、その年生まれの全員が生きていくのに十分なだけの貯蓄を獲得できているのではないでしょうか。

もちろん同じ生年の人の中にも大きな個人差があるのですが、同じ生年の人同士で助け合えば、その年代は全員がハッピーに最低限の生活水準・医療福祉水準は享受することができます。後の世代が前の世代を助けるという年金制度は、高齢者が貧しい少数者であった戦後半世紀には非常によく機能しましたが、高齢者が相対的に富裕な者も多数混ざった多数者になりつつある今世紀には機能しません。逆に高齢者に十分な貯蓄のなかった昔は機能しなかったこのような生年別共済制度が、よく機能する時代になったのです。とはいえこの話で潜在的に損をする人もいないわけではありません。ただし損をするのは、高齢者本人ではありません。死後に墓場にお金を持っていくことは誰にもできないのですから、幸運にも大病もせず、共済に払い込んだ分を使いきらずに亡くなった人も、別に損をしたわけではないのです。

損をするのは、「幸運にして大病もせず怪我もせず、ピンピンコロリで亡くなった方」の「相続人」です。親がこの共済を買っていれば、その相続人の手に入る相続財産はその共済の代金分だけ減ることになるからです。ですが、損をするといっても計算上の話で、相続人が何かキャッシュを払わされるわけではありません。そもそも親がその財産を相続前にどう消費しようと親の自由ですし、子供は子供で自分でも共済を買えば、自分の老後は(同世代であってピンピンコロリで亡くなる方に支えられて)安心です。つまりこの共済方式であれば、誰のキャッシュアウトも伴わずに、世代ごとの、世代内での助け合いによって、高齢者の激増を乗り切ることができるようになるわけです。

ちなみに以上は私か本も読まずに自分で思いついたことですが、直面している現実が同じである以上、同じことを考える人は当然世の中にたくさんいらっしゃるはずです。側聞ですが、昔の国土庁が七〇年代に三全総(第三次全国総合開発計画)を構想した際、人口予測から容易に予想される現在のような高齢者の激増に対処する方策として、同じような方向性(年金制度の共済への改編)が検討されていたそうです。ところが当時の年金官僚の猛烈な反対で、この案は闇に葬られてしまったとか。彼らは年金への政府資金投入に付随して発生する膨大な権益を守りたかったのでしょうが、その時点でこのような施策が取られていれば、日本の今はずいぷんと違っていたのではないでしょうか。戦後の住宅供給と同じ考え方で進める医療福祉分野の供給増加三つ目はどうやって医療福祉サービスの供給を安定的に増やしていくのかということに関する提案です。

日本の医療福祉は政府の価格統制の下にあり、利用者の払う価格が低く抑えられる中で、受益者負担を大きく上回るコストがかかっています。早い話、医療福祉の供給者(医者、看護師、介護福祉士、その他医療福祉産業で働く方々)の人件費は、結局のところかなりの部分が(医療保険や介護保険を経由して)政府が負担しているわけです。そしてその医療福祉のお客さんH高齢者が五年間に数十%というペースで激増しているのに、金の出所の政府が大赤字であるため、医療福祉従事者の人件費総額は十分に増やせていません。そのため供給能力増加=従事者の人員増ができず、病院関係者も福祉関係者も、今や多くが低賃金長時間労働にあえいでいます。

2013年3月30日土曜日

自分で引き伸ばす

しだいに闇に目が慣れてくると、蛍光時計の光がかすかに見えるようになります。現像を始て九分たったら暗緑色のランプをつけ、液の中からフィルムを取り出して現像の進み具合を見ます。乳白色のフィルムの上の銀がどのくらい黒くなったかを確かめ、いつ完了にするか判断します。この黒さが薄いとフラットな眠い(ぼんやりした)ネガ、黒過ぎるとコントラストの強い硬いネガになってしまいます。経験とカンが要求される作業です。真っ暗な中で、天プラをおいしく揚げるようなものです。

現像が終了したら、水で数回ジャブジャブしてから定着液に入れ、光が当たって黒くなった部分以外の銀を落とします。定着液に入れて二、三分たったところで、室内灯をつけます。そのまま十分ほど入れておいてから流水に移し、三十分以上水洗いをします。水洗いが完了したら湿らせた二枚の専用スポンジの間に軽く挟んで水分を拭き取り、乾燥機に吊します。乾いたら六コマずつに切ってネガケースに入れ、作業終了。この間、約一時間半はかかります。

次に引き伸ばし専用の紙暗室に入り、プリンターで一本ずつべ夕焼き(密着焼き)をとります。厚いガラス板の上に六コマずつに切った六本のフィルムを並べ、上に印画紙を置いて下から光を当てて露光させます。印画紙もフィルム同様、現像、定着、水洗い、乾燥の手順を経てから、四倍の拡大ルーペでのぞき、よく撮れているコマに印をつけていきます。

次は引き伸ばし。再び紙暗室に入り、引伸機にネガを入れて伸ばす大きさを決めます。ネガの濃い薄いによって使う印画紙が違ってきます。印画紙は、コントラストが軟らかいもの(1号)から普通(2号)、硬い(3号)まであり、濃いネガには軟らかい1号印画紙を、薄いネガには硬い3号印画紙を使ってやれば、いわゆる調子の整った美しいプリントができます。

印画紙の号数が決まったら引伸機のピントを合わせ、レンズの絞りを決め、イーゼルに印画紙を入れて露光させます。この露光時間がまたやっかいで、ネガの濃度、印画紙の号数、絞りの数値の三つを頭に叩き込んだ上で決めるのですが、これを一発で決められたら天才です。どんなネガからでも露光時間(数秒~十数秒)を言い当てられるようになるには、毎日引き伸ばしぽかりしていても最低、半年はかかります。それも暗室のドア越しに、まだかまだかの上司の怒声、罵声を浴びながらです。半年でマスターできたら、異例のスピード出世です。

プリント用の紙暗室は、常時、暗いオレンジ色のランプが点いていて、五メートル先の人の顔も十分に分かる明るさです。オレンジの光は、人間の目には見えますが、印画紙には感じません。露光された印画紙を現像液にすべり込ませると、真っ白い紙の上に徐々に像が浮かび上がってきます。初めてこれを見たときは、天地創造の瞬間に立ち合っているような気がしたものです。いまでもソクソクする瞬間です。

印画紙をいつ現像液から引き上げるか、これがまたむずかしい。白から黒への階調がきれいに整ったとき、七口で言うのは簡単ですが、この「とき」がなかなかI朝一タには会得できません。早く上げすぎると黒のはずがまだ灰色だったり、うっかりしていると全体が黒く沈んでしまうし、のんびり七ていると紙が茶色く変色してしまいます。露光と現像時間のバランスがうまく合って初めて、きれいなトーンの写真が誕生するのです。