2014年8月16日土曜日

被害者の視点から交通事故を考える

私はある一つの「交通死」を手掛かりにして、今の日本で交通犯罪がどのように処理されているのかを見ていきたいと思います。そのことを通して、くるま社会と言われている私たちの社会の一面を明らかにしてみたいと思います。一般的に言えば、交通犯罪の後始末という問題は法律家の守備範囲です。加害者は業務上過失致死傷の罪で裁かれますし、被害者に対する損害賠償問題を解決するのは弁護士や裁判所の仕事です。

しかし、私は法律の専門家ではありません。全くの素人です。それにもかかわらずこのような書物を書こうと決心したのは。四年半前に私たち夫婦は一九歳だった娘を交通死で失ってしまったからです。娘を奪われたことで、私たちは交通犯罪が今の日本でどのように処理されているかを否応なしに体験させられたからです。この書物の通奏低音は娘を奪われた親の怒りや悲哀や絶望やらであって、専門の学識ではありません。その意味で、これは交通事故を客観的に考察した書物ではありません。交通事故で娘を奪われた被害者という立場から、きわめて主観的に交通犯罪を考えたものにすぎません。

街の書店に寄ってみればすぐに確かめられることですが、交通事故の事後処理について専門家の書いた本は数多く見られます。そしてそれらは、加害者でも被害者でもないという意味で、客観的な立場から交通事故を論じているように見えます。しかし、それらの本は本当に客観的なのでしょうか。たとえばある本には、交通事故というのは「被害者になっても大変だが、加害者になったらもっと大変だ」と書かれています。そうなのでしさっか。事故で殺されるよりも、もっと大変な「生」があるのでしょうか。このような考えは、加害者の側に立たなければ決して出て来ないものなのです。

被害者の側からすれば、事故で失った生命は「総て」であり、いかなる代償によっても蹟われることのないものなのです。「死」よりももっと大変な「生」はありえないのです。どうして、被害者の神経を逆なでするこのような文章が書かれたのでしょうか。それは、この文章を書いた人が常日頃、車を運転しているからです。運転者は潜在的な加害者だからです。無意識にしろ、加害者として事故を眺めているからです。これは専門家の書いた多くの書物に共通した視点ですし。大多数の人々が持っている視点でもあります。このくるま社会では、潜在的な加害者であることが客観的である、ということになってしまっているのです。だからこそ、被害者の側からきわめて主観的に書かれた点に、この書物の特徴があるのです。

加害者ではなく被害者の視点から交通事故を考えるというのは、大切なことだと思います。交通犯罪には加害者が存在し、加害者が存在する以上は被害者も存在します。加害者だけしかいない交通事故というのは、ありえないのです。そして私たちが「くるま社会」に住んでいる以上、あなたのご両親が、あなたのお子さんが、そしてあなた自身が、明日、交通事故の被害者にならないという保証はとこにもないのです。