2014年10月11日土曜日

戦後日本の再軍備

とりわけ首相訓示の一節、「集団的自衛権の問題についても、国民の安全を第一義とし、いかなる場合が、憲法で禁止されている集団的自衛権の行使に該当するのか、個別具体的な事例に即して、清々と研究を進めてまいります。」この言葉は、海外戦争への参加をタブーとしてきた憲法解釈に変更の意欲を表明したものと受けとめられる。自衛隊をはっきりと「アメリカとともに海外で戦う」方向に据えかえる政策転換といえる。とりもなおさず、それは。裏声で歌った”憲法改正宣言にほかならない。ここで、朝鮮戦争を契機とし「警察予備隊」創設にはじまる戦後日本の再武装過程を振りかえる。

警察予備隊本部、保安庁、防衛庁、防衛省にいたる名称の変遷は、半世紀あまりの歳月をかけながらじりじりと変身をとげてきた「日本再軍備」の、長い、折れ曲がった歴史をあらわしている。それはまた、「戦争を放棄した」日本国憲法第九条と現実政治のあいだに形づくられた建前と本音の急激な斜面が、なし崩しと既成事実化のつみかさねにより、法と現実の平衡感覚を完全に失わせるほど増大した事実をも示す。省移行にあらわにされた「下位法による憲法無視」の下剋上ぶりは、現実との乖離をただすなどという形容でつくろえるものでなく、法治主義の原則からしても異様というしかない。たとえ、この間に、日本の経済力と国際的地位が飛躍的に力を増したことや、冷戦後、周辺地域に生じた安全保障環境の移り変りといった事情を考慮に入れたとしてもである。

まして、かたわらに最高法規としての憲法が「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」「国の交戦権は、これを認めない」と明示して、なお現存していることを思えば、法の威信低下は、社会全体の荒廃につながるものといえる。発足の日の曇りなき空によって、防衛省・自衛隊が、憲法のもとぶ日天白日の存在として受け入れられたとは、だから、けっしていえない。いぜんとして。太陽に顔をそむけた”誕生であったとすべきだろう。安倍首相が式典で述べた「戦後レジームからの脱却」という時代の区切りは、一九五五年、保守合同(いわゆる五十五年体制)=自民党結党時になされた「自主憲法・自主防衛」官言、また八二年、中曽根康弘首相が打ち出した「戦後政治の総決算」官言とあわせ、自民党防衛政策における三つ目の大きな転換宣言と受けとめられる。

首相は宿願達成の満足感に満たされたことだろう。それとともに、新設された「海外任務」公式認知と、それにつづく「集団的自衛権容認」の方向とむすんで、さらなる変身への決意も自覚されていよう。首相が二〇〇七年四月の訪米に先だち発足させた「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長の柳井俊二前駐米大使の名をとって「柳井懇談会」とよばれる)は、集団的自衛権解禁への地ならしである。省移行をバネに、このあと自衛隊の変容は、「戦時と戦地」へ向かってまっすぐ突き進んでいくにちがいない。すなわち、海外派兵の手続きの変更-従来とってきた時限立法制定(テロ特措法やイラク特措法など「特別措置法」の方式)によらず、いつでも発動できる「恒久法」(一般法)の立法へと進むだろう。